フルート三昧で配布するミニ新聞に掲載された気ままなコラムです
[ Vol.1〜Vol.6 ] Vol.7〜Vol.12 Vol.13〜Vol.18 Vol.1:フルート吹きのティー・タイム Vol.2:フルート吹きの嘆き Vol.3:なにやろうか Vol.4:ドップラーの音楽は、文句無く楽しい。いや、楽しすぎる! Vol.5:え、楽譜どうりじゃいけないの? Vol.6:演奏会はコミュニケーションの場だ
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−フルート吹きのティー・タイム−
早春のある日、都内某所にたまには親睦をはかるべく集まった数人の笛吹き。K氏とその後輩の女性達である。K氏「あー疲れた。おととい本番できのうは早くから生徒てんこ盛り。みんな発表会近いから殺気だってて。こっちも熱くなっちゃった」。「ほぅ、そりゃ大変だわ」とS嬢。O嬢「でもKさんてパワーあるから。毎日本番でも平気じゃないですか」。K氏「そんなことないって。これで必死に生きてるんだから。去年のデュオの演奏会、しっかりやったじゃないの」。O嬢「あれはKさんにひっぱられただけ。だって知恵熱出ちゃったじゃない」。K氏「そうだった。でもよく頑張った。すごくよかったよ」。I嬢「みんなすごいっスね。なんかいい仕事ないっスか」とぽつり。一同「・・・」。K氏「待ってたっていいことなんかないぞ。それより新しくコンサートはじめないか。アンサンブル中心のやつとソロ中心のふたつ」。S嬢「ほう、そりゃええわ。わたし、それに命かけますから」。I嬢「それ、やりましょう!」。O嬢「えーん、わたしドイツ行き決まったから参加できない」。「これ、毎月やろうよ、充実するぞ」とK氏。S嬢「ほう、ほう、でもちょっときつくないですかね」。I嬢「それ、いつ練習するんですか、時間あるかな、吹けるかな」。K氏「I、おまえは気分がノッテくれば問題ないだろ。それに時間は作るものだよ。Oなんかこれからドイツで毎週クラスコンサートだぞ。月1回や2回の本番なんて楽勝楽勝」。S嬢I嬢「・・・」。本当にきついのは、練習するひまがない程雑用が一気に10倍は増えたK氏であった。
−かくして演奏会は始まった−
はじめは、サロンコンサート。フルート・トリオである。 |
−フルート吹きの嘆き−
19世紀中頃のこと。
−音楽性優先!でもテクニックも欲しい!−
B「さて、オレ達テクニックには自信があるから、うんとハデなのつくろうか。」。A「テクニックにはしりすぎないよう注意しろよ。パリのサロンの甘さと優美さ、それにバイロイトの雄大さと」。B「でもすごいな、自分の作品にあわせて劇場造らせちゃうんだから。笛吹きじゃそうはいかない」。A「いや、そのスケールの大きい精神を持てっていうことさ。フルートは機敏さと声楽の様な息遣いが持ち味なんだから」。B「あの兄弟の曲、結構テクニカルだったよ」。A「まあ、勿論それも大事だけどね、シャンソンみたいな色気もあるじゃないの」・・・・・
というような会話が聞こえてきそうです。M・K
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−なにやろうか−
ある日。
−アマチュアの発言は口に苦し−
まあ、生徒や音楽愛好家の発言にはハラハラさせられること多々である。「あの人の演奏、もっと感情というか色気がね・・・」色気が何なのだ。これぐらいは序の口で、「楽器じゃないよ、腕だよ」とか「今はまあまあだね」という、(これでも)幕下クラスの発言もある。何がまあまあだ。進歩があるということだろ。勝手なことばかり言って。この発言に心当りのある方、少しは反省しなさい。M・K
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−ドップラーの音楽は、文句無く楽しい。いや、楽しすぎる!−
演奏というものは、それがたとえ深刻な内容を伴っていたとしても、基本的には、楽しいと感じられる様な演奏をすべきである、というのが私の演奏に対する基本的な姿勢である。景気の良い世の中ならもっともっと、不景気ならなおさらで、義務とさえ感じる。ドップラー兄弟は、演奏旅行に自らの素晴らしい曲をひっさげて、(雑多な苦労はあったにしても)それは楽しかったに違いない。名人芸拍手喝采である。そこには、物事を単純素直に受け止めるおおらかな聴衆がいたはずである。日本の"専門家"の中には、それをスポーツ的、などと言って嫌う風潮があり、我々専門家は音楽を楽しんではいけないものなのだと、勘違いしてしまう。演奏のスタイルにも"決まり"みたいな物があって、ちょっとでもはみだすと受け入れてもらえない。もっとおおらかに音楽を楽しめないものか。
−夢見る乙女 / 井上 紀子
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サークルベッドに寝ていた時からジャズを聞いていた私の最初に持った夢は、ジャズピアニスト。いつも家の中ではジャズのレコードがかかり、父がサックスを吹き、私はというと、お箸を指揮棒の代わりにして、父が練習しているのに合わせて指揮(?)をしていたのです。それからの私の夢は、歌手、指揮者、etc...と音楽関係ばかり。中学生からフルートを始めてからは、もちろんフルーティストになる夢を持ちました。 |
−え、楽譜どうりじゃいけないの?−
本日は「王宮の響き」という、まったく典雅で高貴なタイトルである。これは益々一生懸命頑張らなくては、思ってしまう。もっともこのタイトル、自分で考えたのだが。別バージョンに「ベルサイユの香り」というのもある。それはともかく、本日はタイトルの示すとうりバロック音楽である。このバロックというのがくせ者で、なぜかと言えば楽譜どうり忠実に演奏してはいけないからである。さあどうしよう。昔先生からは「楽譜どうり、間違えないようちゃんと吹きなさい」とよく言われたのに。
現代の音楽家達は、一部の例外を除いて楽器は楽器だけ、作曲は作曲だけ、指揮は指揮だけ、というふうにその役割は細分化されている。昔は違った。演奏者としてだけでは演奏する曲が無いので自ら作曲し、作曲家は人手が足りないので自ら演奏したのである。先に述べた「楽譜どうりに演奏してはいけない」というのは、楽譜がちゃんと完成していないのである。自ら演奏するので手を抜いたのか、パガニーニの様に技術を盗まれない様にしたのか定かではないが(?)、確実に言えるのは、その曲は演奏者によって完成するという事実である。つまり作曲者は曲という家の骨格や外見は完全に創るが内装は住人任せなのである。素敵な住まいにするか否かはその家の住人、つまり演奏者次第である。悪い意味で忠実な演奏は、退屈でつまらない。どの時代でも音楽は同じ、主張と歌心こそ音楽ではないか。
−悪平等は没個性、個性こそ素敵だ−
それではどうなるのか。十人十色、まことに楽しい。これがバロックの最大の楽しみ、人間ウォッチングである。同じ曲をやたら元気に演奏する人、とてもエレガントに演奏する人、とにかく装飾音符を楽譜に書き足さなきゃ気の済まない人、様々である。何をやろうと勝手である。以前スイスでジョネ先生が誰かのレッスンで「バッハを感情込めて演奏していけないって、誰が言ったんだ!」と言っておられた。まったくそのとうり。今日はどんな演奏になるか、お楽しみ!M.K |
−演奏会はコミュニケーションの場だ−
昨今のマルチメディアの発展と勢いには目を見はるものがあり、その変化の激しさにはついて行くのも大変です。2000年頃からは世界共通の移動電話のサービスも始まろうとしています。数年来話題の中心を独占して来たインターネットも一般にかなり浸透しているようです。
−演奏会のスタイルは色々あっていい−
「フルート三昧」の様な演奏会では、演奏者もお客さんも同じ土俵の上にいると言っても良いでしょう。この狭い会場で、見知らぬ人とはいえ会話が無いのも少しもったいないような気がします。休憩中に話しかけてみてはいかがでしょうか。勿論出演者にも。私は新しい出会いが大好きです。ですから、当演奏会やサロンコンサートなどの小規模な演奏会も、大ホールで行われる演奏会同様に大切なものだと考えています。大きい会場では、良い音響のもと身体の芯まで音楽を感じ、小さい会場では、音楽と演奏者・聴衆を身近に感じて交流を図る、と演奏会も色々あっていいではありませんか。M.K |
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記録 後記 |
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