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Vol.14:流行作曲家・テレマン
Vol.15:たまにはこんな曲も如何?
Vol.16:”知られざる名曲”は、本当に知られていない
Vol.17:フルート奏者クヴァンツ、その心情を語る
Vol.18:名曲アラカルト
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(クライス・フルート・ソロイス
Vol.13) −古典は教科書だ− 前回の当サロンコンサートでは、「ネオクラシック(新しい古典音楽)」と題して現代音楽の中でも前衛音楽に属さない親しみやすい現代曲を演奏いたしました。本日は正真正銘の古典音楽を演奏いたします。 古典音楽はただ過去の遺産と言うだけでなく、我々音楽家にとって大変重要な意味を持っています。なぜなら中世の音楽からルネッサンス、バロックと未完ながら発展してきた音楽の基礎的な要素が完成された時代だからです。”ベートーヴェンの楽譜は永遠の教科書”などと作曲家の間では言われたりします。ベートーヴェンの師的存在のハイドンやモーツァルト、そしてもちろんベートーヴェン自身も交響曲や協奏曲、そしてソナタの形式を確立しました。ソナタ形式というのは大体に於いて、主たるメロディがあり、それが形を変え発展し、またメロディの再現があり終結を迎え曲が終わります。これはまさに文章と同じ起承転結で、メロディの再現は録音物の無かった時代に、一度聞いただけでも聴衆に曲の印象がなるべく残るようにという配慮の意味も含まれているのです。 このように古典時代には作曲技法の基礎が高度に完成した時代と位置ずける事が出来ます。曲の構成がしっかりすることによって、聴衆は曲への理解が深まり、益々多くの人々に受け入れられる事によって音楽全体の発展を促す事となりました。古典時代以降のロマン派や印象派の音楽は、古典派の理論を発展させたに過ぎないのです。 −埋もれた名曲はたくさんある− 一般的に思い浮かべられる作曲家の数はしれています。しかし、楽譜や文献のみに名を連ねている作曲家は有名な作曲家の数百数千倍はいることでしょう。そのほとんどは文献にすら乏しい情報しか残っていない、また楽譜のみが伝えられている作曲家が少なくありませんが、中には秀作も多く見かけます。そのようなほとんどスポットをあびることのない作品に光を当てるのも、我々音楽の重要な使命であり仕事であると思っています。有名な曲だけを色々な演奏者で楽しむのもよいのですが、もっと視野を広げ色々な個性にふれてみるのもいいものです。本日の演奏曲目は、そんな観点から選んでみました。構成がしっかりしていて面白く、各パートのテクニッも披露できる素晴らしい曲ばかりです。 さて、皆さんのご感想は如何ですか。 M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.14) −流行作曲家・テレマン− テレマンという人、とにかく当時の人気は絶大でバッハを大きくしのぐそうである。解説の大竹氏によれば、仕事の駆け引き上手で社交的、温厚でけんかを好まず、出版社との関係も良好でプロやアマチュアの為に膨大な作品を書きまくり、となかなか楽しそうで羨ましい人生である。確かにフルートの曲だけでもフルートの楽譜屋さんに行けばゆうに幅2メートル程のスペースを占有しており、これはバッハ、ヘンデルをもはるかにしのぐ。本日の演奏曲目を決定する際にも、念のため行った楽譜屋さんのテレマンのコーナーの前に長く居座り、以前、このサロンコンサートを始めるために楽譜を買いだめした時に言われた「12万8500円です」にならぬ様注意したのは言うまでもない。 それらは我々の耳になじみのあるバッハやヘンデルとは一線を画す響きを持っている。大体にして、それらの凝った作りを本当に当時演奏できる人がいた、というのが感嘆に値するのだが。それも、あの未完成な楽器で。また「メトーディッシュ・ゾナーテン(装飾のための範例付きソナタ)」に代表されるように、オブリガート(装飾)の範例が楽譜に書き込まれている場合がある。本日演奏する「トリエット」の第2楽章のアンダンテにも装飾の範例が書き込まれており、本日はその範例にしたがって演奏する。 −楽しさ− テレマンの音楽は楽しい。バッハの音楽は楽しさもあるが、"崇高さ"の方が強く感じてしまう。その辺が当時の人気の理由かも知れない。大竹氏曰く「結構幸せな音楽家っていたんですねぇ、音楽家って暗くて苦労した人ばかりだと思っていましたが、それ、間違いですね」 作品2の二重奏曲はアマチュアのためにも作曲されたらしい。そのためか演奏を楽しめる。全部で6曲あるのだが、テレマンの"作風"は別にして、どれもが"似た感じ"ではない。1曲演奏すると次も演奏したくなる素晴らしい曲集である。
テレマンという作曲家、もしかすると聴くより演奏した方が楽しい作曲家かも知れない。我々演奏家にとっては嬉しい存在である。私の生徒さん達の中に、この二重奏を演奏したことがある人はたくさんいる。教則本に引用されていたりもする。この楽しさを感じさせるという事は音楽の原点であり、それを創造したテレマンのことを、身近に感じるのは私だけではないだろう。
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(クライス・フルート・ソロイス
Vol.15) −たまにはこんな曲も如何?− 本日のプログラムの後半の曲目、今までとちょっと違うでしょう?世の中に良く知られていない名曲の発掘・啓蒙が趣旨の我々ソロイスツですが、9月に入りぐっと気候が良くなって、たまにはポピュラーな曲も吹いてみたいとアレンジしてみました。「サウンド・オブ・ミュージック」は志田さんの編曲ですが、それ以外は私が編曲しました。滝廉太郎、中田喜直、フォスターは何の苦も無くスムースに編曲作業が進みましたが、センチになって、ミスティ、A列車で行こうの3曲は少々苦労しました。やはり聴くとするとでは大違い!なのです。これはジャズ風のアレンジなのですが、基本となる音階がクラシックとは全然違う。クラシックで”美しくない響き”を、ジャズでは美しく、華麗に、センス良く、etc...とにかく違うのです。それに、ジャズは一度に鳴っている音の数がクラシックより多くて、それを3つの音に振り分けるのが大変で悩みました。クラシックで”ドミソ”の和音が、ジャズでは”ドミソシレファラ”とかになってしまうんですから・・・ とにかくアレンジが出来上がっていざ音出し。ところがスゥイングしないんですね、なかなか。譜面に書かれているリズムは、あくまでも参考に過ぎません。ですから、その時の気候、会場、お客さん、気分で演奏が違ってきます。この辺がジャズの醍醐味なのでしょう、バロック音楽と大いに通じるところがあります。 こうして、”クラシック”という枠組みをより柔軟に広げようと思っているのです。そもそも、我々ソロイスツの”フルート3本、時にはピアノと太鼓入り”というのは、そんな思いが含まれているのです。 −日本人の血が騒ぐ?−
練習していて、ミスティとかは「う〜ん、イイ曲」なのですが、フォスターになると「しみじみするネ」になり、滝廉太郎と中田喜直に到っては「これだよ、これ!」になるのです。つくづく自分は日本人なのだなぁ、と実感してしまうのです。第一練習中に、他の曲なら「ここ、〜な感じでやろうよ」とか、「この曲、もっと早いテンポなんじゃない?」という意見が出るのに、日本の曲をやっているときはそれが無い。すんなり演奏できる。いくらクラシック音楽を生業としていても、母国の音楽も尊重しなければ、と改めて思ったのでした。
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(クライス・フルート・ソロイス
Vol.16) −”知られざる名曲”は、本当に知られていない− 今日演奏する曲の作曲家、ヴァイデマン、ドゥセク、ホフマイスター、を一人でもご存じですか?知らないでしょう!それが普通です。知っていたらあなた、かなりのオタクです。ここミニヨンでのシリーズは、フルート奏者でさえ知らない曲がほとんどで、中には”日本初演”もあるのではないかと、密かにワクワクしているのです。「まったく、よくやるよ」、と思いつつ今これを読んでいるあなた、すでにこの秘密の園にとっぷりと浸かっています。悪しからず。 有名でなくともいい曲はたくさんあります。もちろんモーツァルトのような大天才と比べてはかわいそうなのですが、有名な作曲家の駄作に比べたらはるかに優れた作品も少なくありません。また、作曲技法的には平凡でも、聞いて楽しめる作品は大いに存在意義があると言えるでしょう。 演奏する側からみると、どんな作曲活動をしていたか、どんな楽器を演奏するのか、など不明な点が多く、生誕地や生年月日が分からないなど日常茶飯事で、演奏する上でのバックグラウンドを構築できず困ることなど朝飯前。これらは出版にあたって、それぞれの国の図書館などに所蔵されている手書きの原譜からコピーするわけですから、おびただしいその蔵書の中には時折かなり怪しいものも混ざっているわけで、どう調べても国内では解明できない作曲家もいたりするのです。まったく困り果ててしまいます。特に旧東側では、録音物を公開していながら楽譜や文献は公開しない、なんてこともざらにあるのです。もっともその国の該当図書館まで出向けば閲覧ぐらい出来るかもしれませんが。 −フルートの楽譜であってもオリジナルとは限らない− 特にバロック時代などにおいて、たとえ演奏において演奏する楽器が指定されていたとしても(まぁ、これが普通ですが)音域さえあえば何で演奏しても良い、という概念がありました。ですから作曲家の方も詳しい指定をしない場合があるんですね。それが多作家だったりする。それをかまわず出版でもされたら・・・困ったもんです。 モーツァルトの、と言うよりクラシック界の超有名曲「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、あれ弦楽合奏で演奏せよ、という指定無いのですよ。弦楽四重奏でやっても理不尽でないのです。本日の曲は、正真正銘フルート3本のための曲です、はい。 M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.17) −フルート奏者クヴァンツ、その心情を語る− クヴァンツは幼いうちに孤児になるという不幸にあいながら、立派なフルート奏者として成功しました。庇護者にも恵まれ、多くの著名人に師事しています。結局、才能があったんだろうなぁ。そして、現代の我々にとって特に重要なのは「フルート奏法試論」という書物を残していることです。これは、フルート奏者に限らずバロック音楽を演奏する者にとって、当時の考え方、習慣を推測できる重要な文献なのです。巻頭に「序論」として、音楽家、音楽教師、また生徒について面白くかなり断定的な口調で(B型かも)論じていて、とても面白いので一部を紹介しましょう。
「良い音楽家になるために必要な素質と天賦の才能、勤勉さと愛情があるかどうか・・・」(どき) 「繊細な感受性と生き生きした精神、憂鬱なところがない程良い気性」(ドキ) 「全ての事を容易に理解できる明晰な頭脳」(土器) 「健康な体、肺に負担をかけない規則正しい生活」(インターネットと◯×゙△やめようか)等々・・・。 著名な音楽家に、真に優秀な音楽家がいないと彼は嘆いている。 「全く無趣味で感受性のない精神、不器用な指、音楽に向かない耳。彼らは他の学問を修得する方が賢明である。頭は空っぽなのではないだろうか」 「未だ無知の域を出ていない者に、どうして良い音楽を演奏することが出来、音楽界を良くすることが出来ようか」と厳しい。 「才能があるにもかかわらず、ねたみ、金欲その他数限りない原因で下積みにされ、邪魔され、その才能を開花できずにいる」。
楽壇のどろどろとした事情は、今も昔も大した差はなかったらしい。(失言)
「生徒は先生がレッスンで言ったことを、熱心に何回も繰り返さなければならない」(そうだ) 「先生には反抗的になってはならず、あらゆる点で素直でなければならない」(そうだそうだ) 「生徒は、勤勉、努力、情熱、絶えざる探求心を持たなくてはならない」(もっともだ)・・・。 上記クヴァンツのコメントの「先生」の前には「優秀な」が付くんですがね。まぁ、問題ないでしょう。 そして、「他の先生の2倍か3倍謝礼を支払っても、優秀な先生に師事しなさい」(よし、月謝値上げしよう) M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.18) −名曲アラカルト− 今年最後のソロイスツ・サロンコンサート、今回はいつもと違い有名な曲・楽しい曲をお届けいたします。何せ日頃は、もしかしたら日本、いや世界初演?などという珍品・逸品そろいの当シリーズ。たまには聞き慣れた曲も良いでしょう。 そもそもクライス・フルート・ソロイスツ・サロンコンサートのシリーズは、「楽譜は出版されているのに滅多に演奏されることがない、演奏されたという話を聞いたことがない」という曲と編成で、埋もれた秀作を広めよう、というのが趣旨の演奏会です。このシリーズを始めるに当たって「そりゃイイねー、やってよ、やってよ、きっと好き者が集まるよー」と賛同してくれたO氏も「マッタクよくあるねー、たくさん変な曲が。お客さんもよく来るよなぁ」と無責任な発言続発。 まあ、啓蒙も大事ですけれど、音楽は楽しくなきゃいけないのは重々承知しています。皆さん、今宵は安心してお楽しみ下さい。 M.K. |
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記録 後記 |
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